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沖縄「集団自決」教科書検定問題のゴマカシ
――「慰安婦」問題と同じ轍を踏んではならない
沖縄の集団自決に関する教科書検定(高校日本史)を巡って、沖縄では9月29日に県民集会なるものが開かれ、大きく報道された。既に県議会をはじめとして沖縄のすべての市町村議会が検定の撤回を求める決議を行っている。沖縄では「教科書にウソを書くな」とか「歴史の事実を歪めるな」という運動が起こっている……というわけである。この動きに驚いた福田政権は、早くも検定の再修正に動いている。
しかし、事実を歪めているのはどちらだろうか。実は、ここには教科書検定の事実関係について大きなゴマカシがある。まず第一に、一連の報道や地方議会決議では、教科書検定によってどんな記述がどういう理由で修正されたのかが、ほとんど触れられていない。
この検定では「日本軍に『集団自決』を強いられたり」や「非戦闘員の犠牲者も多かった。なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた」などという記述に対して、「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現」であるとの修正意見がつけられた。その結果、「追いつめられて『集団自決』した人」や「非戦闘員の犠牲者も多かった。なかには集団自決に追い込まれた人々もいた」と記述が修正された。つまり、集団自決の事実そのものを否定したわけでもないし、記述自体を削除したわけでもない。集団自決をしろと軍が強制したという記述を修正しただけである。
これに対して、地方議会決議やマスコミは「集団自決は日本軍の関与なしに起こり得なかった」と主張し、軍による「強制」を削除するのはけしからんというのである。しかし、ここに第二のゴマカシがある。というのは、「強制」というのは、何かしらの事実があって、それを「評価」する言葉である。つまり、「強制」というなら、軍がどんな「強制」を行ったのか、という事実認定が前提になければならないはずだ。
また、「関与」という言葉が持ち出されていることも怪しい。なぜなら、戦闘中の沖縄は軍の統制下にあったのだから、軍はすべてに「関与」していたことになる。「関与」というなら、いかに関与していたのか、つまりは軍が強制したのかどうか、具体的には軍が集団自決を命令したのかどうかという事実関係に集約されるべき問題なのだ。逆に、「関与」という言葉を持ち出すというところにある種の意図が見え隠れする。
では事実はどうだったのかというと、慶良間諸島の座間味島のケースでは、自決を指示したのは当時の村の幹部で、そのための弾薬をくれという要請を軍の守備隊長は拒絶した事実が明確になっている。また、渡嘉敷島では、曾野綾子氏の『ある神話の背景』に書かれているように「軍命令」は事実上否定されている。どちらのケースも、集団自決命令を出したとされる守備隊長自身と遺族から冤罪だということで訴訟が起こされていて、そのなかで「命令」はなかったとの証言がなされ、逆に「命令」があったとする証言は出てきていない。『沖縄県史』などにも軍の命令があったという証言はない。
そうした前提となる事実関係が存在しないか、もしくは非常に貧弱な証言しかないというのであれば、教科書に軍の「強制」を記述すべきではない。「未確定な時事的事象について断定的に記述しているところはないこと」という教科書検定基準に明らかに反するからである。「沖縄県民が怒っている」という「空気」に押されて検定を再修正などしたら、それこそ検定への政治介入であり、政府自らが検定制度の首をしめるようなものだ。
「強制」「関与」で思い出すのは、いわゆる「従軍慰安婦」問題だ。強制連行という事実がなかったにも関わらず、本人の意に反したということが「強制性あり」とされ、軍が乱暴な募集を軍が取り締まるよう警告したことが「関与」とされた。しかし、「慰安婦」騒動のという「空気」のなかで、根本にある強制連行などなかったという肝心の事実は踏みにじられ、河野談話という「謝罪」が行われ、禍根を今に残した。今度の「集団自決」検定問題も同じプロセスを辿ろうとしているように思われる。教科書問題で大事なのは、「強制」「関与」という言葉ではなく、その前提となる事実である。惑わされてはならない。 |