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アメリカと対等にアジアを議論する前提とは?

 今年に入ってからとあるTV番組にて、上方落語の3代目桂南光師匠が「最近ニュースで米朝(ベイチョウ)師匠の名前よう見んな〜」と冗談を言っていた。昨今の拉致問題についてもそうであるが、日本がアジアの問題を考え解決してゆく際に最早アメリカという存在は切り捨てえぬものとなっている。ちょうど戦前の日本が朝鮮半島や中国とお付き合いする際に、欧米諸国との関係を顧慮せずには成り立たなかったように。
 我が国の先人たちは明治維新以降「アジアとは何か」「自分はアジアの何なのか」「自分は『アジア』であっていいのか」・・・といった事を(各々の出した結論の成否はともかく)真摯に自らに問いかけてきた。そして最近また東アジア共同体構想のようなものが、「アジアをどう捉えるか」などといった文脈から染み出してきている。
 昨年以来、そうした問いに正反対の立場から答えを見出そうとする二つの書籍が同じちくま新書で出版された。一つは昨年夏に出版された井上寿一『アジア主義を問いなおす』、いま一つは最近出版された古田博司『新しい神の国』。
 前者は戦前戦中の「アジア主義」「東亜新秩序」が挫折した原因を考察し(その中で尾崎秀実を好意的に評価しているのがいささか気に掛かるが)、特にアングロサクソンとの決裂をもたらした要素が三国同盟や米英可分論的認識であった事を指摘する。そして、我が国の外交筋からも民間からも目下「東アジア共同体」の呼び声が高まっている事を背景に「『中国の東アジア化』と『日本の東アジア化』とによって日中関係が接近する時、東アジア共同体も成立するに違いない」と述べ、「アメリカを国際協調の枠内に引き止めて」おき「その上で東アジアの国際秩序構想への関与を促す」べきであるとしている。
 後者は戦後日本において、贖罪意識を伴って蔓延した「アジアは一体である」といった言説は戦前の(特に左派が唱えた)「『東亜新秩序』というイデオロギーの延長上」にあり、「今日の中共版東アジア共同体まで脈々と連なるプロパガンダの典型」であるとする。そして我が国がそもそも「『東アジア的存在』だったのだろうか」と提起し、歴史上「日本は最初から脱亜していた」と「別亜」論を唱える。そして、漢文献を含め大陸からの厖大な舶来品により「日本人は辛うじてかの国々との連帯感を幻想したに過ぎなかった」と喝破する。
 (東)アジアに生じている様々な問題に対し、我が国が真摯に立ち向かい毅然たる態度を取るべき際に、特に中国や朝鮮半島に対して「同じ『アジア』として彼らと我らは本来一体」「同じ『アジア』文化をもつ者同士話せば分かる」といった発想で適切な対応を欠いている感が拭えない。だとすれば、実際我が国の国益を守るうえでの認識として上記二書の主張のうちどちらがより現実的であるといえるか結果は明白である。こうした点を国民が共有して初めて、極東地域で我が国がアメリカと「対等に」議論する前提が揃うはずである。