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歴史認識と国際社会観の一体性

 成田国際空港会社の平成21年度以降の株式上場に合わせて成田・羽田空港の管理運営会社などを対象に外国企業の出資比率を制限するための空港整備法改正案について、2月5日の閣議では議論が紛糾した模様である。この議論は単に“国有化か規制緩和か”といった話にとどまらず、我が国の危機管理/安全保障ひいては「この国のかたち」にかかわる重要なものとなってくるのは間違いない。
 「この国のかたち」といえば、「国体」――特に我が国の連続性を担保する天皇の存在抜きには語れない。戦後の日本国憲法によって「この国のかたち」は損なわれつつあるが、今後我々日本人自身の手で回復してゆかねばならないであろう。我が国の対外窓口たる空港もそうしたものを表現する主体であるという認識のもと、今回の議論を深めてほしいものである。
 さて「国体」についてであるが、今月号の『月刊現代』(講談社刊)で、日本を代表する評論家が、連載<私の護憲論>にて「わたしは『現代日本の国体は象徴天皇制(憲法一条)と憲法九条』だと思っている」などと書いている。ここでいう「憲法」は昭和21年(1946年)に制定されたものであるから、「現代の国体」というものがもし仮に存在しうるとすれば、昭和21年を境に日本の国体は断層を生じて分断されているということになる。これではまるで、かつて宮澤俊義が唱えた「八月革命」の世界である。
 ところがこの筆者は日本国憲法(文中では「昭和憲法」となっている)が明治憲法を改正するという形式でできたことは認め、その「憲法改正は、天皇抜きでは何も語れない」と述べる。つまり、戦前と戦後を一つ貫くものとしての「天皇」の存在を認めながら、それ(日本国憲法でいえば第一条)を戦後突如として現れた憲法第九条と同列に並べてしまっているのである。御都合主義も甚だしい。
 また当憲法のGHQ案を起草した民政局が、共産主義者と見まごうような進歩的人士たちの集合体であったことも今や周知の事実である。そうした背景でもって作られた名ばかりの憲法、しかも中でも特に問題のある第九条をもって「現代日本の国体」と言って憚らない筆者は、巷では「知の巨人」などと称される知識人である。我々も、一人々々意識をもって「国体」というものについて改めて考え、「この国のかたち」を守る努力をしてゆく必要があるのではないだろうか。